大塚英志のトークセッション。
「物語の作り方」に行ってきました。
女性1:男性3、といった感じで、圧倒的に男性の方が多かったっす。
あとは、
大塚氏のファン:小説家志望っぽい方=1:1(コレはけっこう微妙)
今回の目的は、とりあえず「小説家」と、称する生き物というのはどんなモンか見る、というのと、同様に「小説家志望」という生き物とはどんなモンか、見るのが目的…、だったんですが。
本質的に私が勘違いしていたのは、あくまでも「物語の作り方」であって、「小説の書き方」では無い、という点。
つまり、「小説家志望」とは限らないわけだ。
シナリオライター志望かもしれないし、ゲームデザイナー志望かもしれない。「物語をつくる」という行為を行うノウハウ、という意味では、別にテーブルトークのゲームマスターが来てもいいワケだ。
おおまかな講演の流れとしては、大塚英志の著作「物語の体操」でもあった、カードを作った物語つくりの実践と、ともかく話をでっちあげる、いわばトレーニングを行うことの意味、といった話が中心だった。
「てにをは」や文章の美しさ、文体については、いっさい触れずに、ともかくスニーカーの新人賞一次選考くらいは通過するレベルまで、彼が受け持った専門学校の生徒をひっぱりあげた時のエピソードが語られた。
いわゆるライトノベル系であったとしても、受賞者の大半はソレナリの大学を出ている、そしてそれは発表されてはいない、という、選考側への指摘。(しかし、高学歴者というのは、受験ノウハウを理解、実践できる、という意味で、一定水準をクリアしている、という点も指摘していた)
物語る、というのは、もちろん先天的な才能による部分もあり、天才と呼ばれる人たちも多くいる。しかし、決して訓練で克服できないモノではないのだ、というのがとても印象的だった。
80年代のポストモダンうんぬんは現代思想まったくわからんのでチンプンカンプンだったんですが、たとえ陳腐であれ、お約束であれ、最近は世代的に物語として事象を再構成するための力が足りなくなっている。それを憂慮し、ともかく物語を作る、という行為の敷居を下げ、多くの人間が物語りを作り出すよなノウハウを確立した、というのが、私の感じた彼の主張。
日常的に物語を作るトレーニングの具体的な話をする、といった感じ。
カードを作っての演習は、既に物語の体操を読んでいたんで、内容が重複していたのと、準備の行き違いでホワイトボードが無くて、実践する時間がほとんどなかったのがとても残念だった。
スニーカー選考の話、数ページの梗概しか下読みの時は読まないから
ともかく梗概はしっかり書くべし、というのは、新人賞の取り方の本にもあったような…?
お話を創る作業、というのは別に特別な事ではない、とはまったくもって同感。
ただ、萩尾、手塚、石ノ森を知る世代と、そうで無い世代に、圧倒的な断層がある、という点はどうなんだ?と、思ったり。
(じゃあ萩尾手塚以前はどうなんだ、って話にならないか?)
ある世代で引き継がれるべきものが絶えてしまった、というのは、ちょっと私も感じている部分ではあるんだよなあ…。
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